翡翠の時間

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「………」
 睡眠状態から覚醒状態への移行が、人より若干、スムーズでない。
 要は自分のいわゆる寝入りや寝起きが、あまりよろしくないのを、当麻は一応認識している。
 昔いっとき同室だった奴が、これまたどこかにスイッチでも付いてるのか?!と疑いたくなるほど、対極なタイプだったため。皆の共通認識上、なおさら強調されてしまっている気もするのだが(足して二で割れお前ら、みたいなことを、当時どれだけ言われたことか)。
 ……それにしたって今朝の気分は、とりわけ格別。
 自分史上でもかなりな上位置、ほとんど殿堂入りに相当するよなあ、などとふざけたことを考えつつ。
 昨夜とほぼ同じ場所、夏座布団の藺草の上に、胡坐をかいた姿勢で。表面に、丸い水滴のまぶされたガラスピッチャーから、当麻は今朝二杯目の麦茶をコップに注ぎ、口に運んだ。
「………」
 昨日は大層賑やかだったこの居間も、今は一転。すっきり隅々まで片付けられた室内は、若干広くなったようにすら感じられる。
 庭に続く掃き出し窓は、今は開け放たれていて、縁側に並ぶ朝顔の鉢が、紺や白、紅色などの花を咲かせているのが見える。その横にはカブトムシでも飼っているのか、ガラスやプラスティック製の飼育箱が数個。
 冷えた麦茶を口に含みながら、そんな明るい夏の朝の光景を、しょぼつく目で眺めていると。やさぐれている気分も、多少は和んでくる気がしないでもない。
 暑くないわけではないのだが。それでもほとんど不快感を意識することもないのは。部屋の角に据えられた大振りの扇風機の、そして網戸ごしに流れ込んでくる、天然の風のおかげだろうか。
 半分ほど巻きあげられた、細い竹製の簾の向こう側から聞こえてくる、賑やかなセミの声の中に。一匹、あきらかに調子の違うものが混じっているのを、ふと聴き分けて。
「…ツクツクホーシ」
「え?」
「や。もう鳴いてるな、と思って」
 畳を踏む、微かな足音とともに、視界の隅に入ってきた相手に。首の位置は動かさないままで、当麻がそう応じると。
 座卓の際に、提げていた大きな盆を置き。伸は少しの間、耳をすませていたが。
「本当だ。でも、今年は遼の誕生日あたりから鳴き出してたよ、こっちでは」
「…へえ」
「夏ももう終盤、って感じがするよね。あの声を聴くと」
 もっともまだまだ暑いけど、と言い足しながら。
 生姜と刻みネギが乗った冷奴、柔らかそうな煮豆、自家製らしき浅漬けや糠漬け、等々。喉通りの良さそうな小菜類が、相手の手で次々と並べてられていくのを目にするうちに、素直に空腹を自覚して。
 当麻は背筋を伸ばし、差し出された塗り箸を受け取って。先に机上に置かれていた、これも自家製に違いない薄桃色の箸置の上に、揃えて置いた。
 大振りの茶碗の中の白飯と、その隣のガラス鉢に盛られている、つややかに白い、小魚を眺め。
「…白ゴマ、あるか?」
「…ああ。ちょっと待ってて」
 即座に立ち上がり、踵を返した後姿に、あ〜悪い、と声をかけて。
 身にまとわりつく気だるさを持て余しつつ、まだ開ききっている感じがしない両瞼を、何度も瞬かせてから。
 当麻は両手の指を組んで伸びをしながら、あくびをひとつ、盛大にかみ殺した。



 運んで来られた白ゴマは、手の平にすっぽり納まる大きさのすり鉢に入れられ、その鉢に見合ったミニサイズのすりこ木も添えてあるといった、丁寧な代物だった。
 多分この家ではこれがあたり前なんだな、と思いつつ。早速、軽く半ずり程度にゴマをすり潰してから。
 まだ熱い白飯に、釜揚げのシラスをたっぷり乗せ、続いて作りたてのすりゴマを、その上に適当まぶし。麦茶のピッチャーを持ちあげて、茶碗に注いでいる、当麻の様子を。
 伸は、座卓の斜め向かいに座って、興味深そうに眺めていたが。
「なかなか美味しそうだな、それ」
「ああ。昔っから好物なんだ」
「でも、ちゃんとよく噛むんだぞ。消化に悪いから」
(……おこちゃま扱いしやがって。)
 すっかり保父状態が板に付いてやがるこの野郎、と胸の中で毒づき。
 そのおこちゃま達の気配が、起きた時から皆無なのに、今さらながら気付く。まあ下の子の方のそれは、昨日もないのも同然だったが。
「もしかして今家の中、俺らだけか?」
「…母さんは多分、窯場にいるんじゃないかな」
 義兄さんは通常どおり出勤、姉さんはタクミを園に送りついでにミナトと病院、と淡々と続けて。
「でも、どうせ姉さんたちはすぐ帰ってくるだろうし」
 そううまくはいかないって、と苦笑まじりの表情が言っているのに、しかめ面を返しつつ。
「…しかしむちゃくちゃ美味いな、この釜揚げ」
「だろ? 新鮮だからね」
 うちから車で10分ほど走ったところの漁港の端に、シーズンだけ稼動してる加工工場があってさ、と伸は続けた。
「近くに行くついでがあったから、さっき、朝イチで直接買ってきたんだ」
「獲れたて出来たて、産地直送か。……今朝いつ起きたんだ、お前」
「六時前、かな。朝日が綺麗だったよ」
「………」
 えらいまた早起きだったんだな、と思い。それとともに。
「…じゃあそれまであいつ、お前の布団におったんやな」
「あいつ? ……ああ」
「何だったんだ。ゆうべのあれは」
「何って」
 くすっと笑って。
 残り少なくなったピッチャーに、手を伸ばしながら、
「怖い夢か何か、見たらしくって」
「悪夢か」
「…悪夢ってほどでもない、いくらか怖い要素もあるって程度、らしいんだけど」
 夢の内容を、詳しく話してくれたことはないんだけどね。
 自分の分の麦茶をコップに注ぎつつ、相手がそう言い足したのに。
 ……昨夜だけじゃない、今まで何度もあったってことだな、と推察し。
 でも何の躊躇もなく俺を踏んでいったのは、十中八九意図的、嫌がらせだよな、とげんなりしつつ。
「俺はまた一瞬、俺を奇襲しに来たのかと」
「まさか」
「でもお前だって相当、驚いてなかったか? あの時」
「…あれは」
 微妙に視線を背け、外の眩しい景色に目を遣って。
「お前が奇襲をかけてきたのかと、一瞬思ったんだよ」
「………」
 そりゃあ、どれだけそうしたかったことか。
 でもどーせ絶対許してくれんくせに、などと胸中で愚痴りつつ。
 真夜中に起きた、非常にむかっ腹のたつ出来事を、詳細に当麻は思い返す。


 ──── ゆうべ、夜半過ぎ。
 結局は、ベッドの上と床の上という、昔ながらの定位置で。
 暗闇の中、内心鬱々悶々としながらも。互いの近況やら仲間の噂話等々、他愛のない話を、とりとめないながらも途切れることもなく、交わしているうちに。
 予測していたとおり、やがて程良く吹き始めた夜風が、身体にとても心地よく。
 プラス移動疲れやアルコールにも助けられてか、思いのほかスムーズに入眠するに至った、その矢先のことだった。
 いきなり、何か堅い、かつ強烈な圧力が。
 まずは上掛けから出ていた、右足首に。その一瞬後には、仰向けに寝ていた腹の中央に、まともにぎゅうっとかかったのに。
 その衝撃と、寝入りばなの深い睡眠から叩き起こされたショックで。覚醒したのと同時に当麻は、いわゆる失当見識状態に陥った。
 しかし続けてすぐ、隣のベッドから
「うわっ!」と小さな、しかし鋭い叫び声が聞こえ。
 瞬間的に腹部の痛みも忘れ、がばっと半身を起こした当麻の目に、映ったのは。
 淡い色の壁紙を背景に、薄ぼんやりと輪郭のわかるタオルケットの中に、頭から潜りこんでいる最中らしき。脛と小さな足首の、シルエットだった。
「………」
 …… 正体は明白だな、と思い。
 ベッドの上の膨らみ部分が、もぞもぞ動き続けているのを、何とはなしに息をひそめて凝視していると。
 そのうち、何かを話しかけているらしき、穏やかな小声が聞こえてきて。やがて動きも止まり、深夜の静けさが、部屋の中に完全に戻ったのに。
「………」
 せめて、文句のひとつ位は言ってやりたい気分だったが。相手が相手だけに、それも大人げない、何より何と言えばいいものか、全然思いつかず。
 かといって、すんなり添い寝を了承したらしき、ベッドの主に、声を掛ける気にもなれず。
 まだ圧迫感の消えない胃をさすりつつ、ベッドに背中を向けて、ふて寝を決め込んだものの。
 胸の中にわだかまった、なんともいえないモヤモヤ感が延々、容易に去らないまま。
 結局その後は、なかなか寝付くことができず。往生したのだったが。


「…それにしても」
 リアルに蘇ってきたムカつきを、なんとか収めよう忘れようと努めつつ。
 あらためて、茶碗と箸を手にしながら、
「結構よくあるのか? あんなこと」
「よくってほどでもないけど」
 座卓の表面に片肘を突いた姿勢で、首を傾げ。
「月に1、2回位、かな」 と、伸は応じた。
「微妙な頻度だな。しかし、母親のとこに行くだろ、普通は」
「…ミナトが、いるからね。我慢してるんじゃないかな、お兄ちゃんらしく」
「………」
「それに義兄さんも、夜遅かったり当直だったりってことも多いし。母さん……おばあちゃんはおばあちゃんで、本人の具合が良くない時があるから。消去法で、僕なんだろ」
「…そうかあ?」
 ますます眉をひそめつつ。それは疑わしいよな、と当麻は思う。
 いくら弟が一緒に寝ているからって、すぐそばにいる母親の布団に行くのが普通、筋だろう。まっ暗闇に近い、深夜の廊下を走って、階段上って二階まで来るか? フツー。
 その行程だけでも、かなりな覚悟が要るだろうに。年端もいかない幼児には。
「………」
 ふと。そういった可能性もあるのでは、と思い立ち。
「…もしかして、何かしてやってるのか?」
「何かって?」
「だって、夢だろ」
「…ああ。いや、全然」
 少し意外そうな目を向けられたのに、二の腕を、座卓の上から外し。当麻をまっすぐ見返して。
「だってそもそも、同調したことすらないし」 と、伸は返した。
「…必要ない、ってことか」
「おそらくね」
 大体怖い夢なんて、誰でもみるものだしね、特に小さな子供は。と、言葉を繋ぎ。
「それにもし、付け焼刃で何かフォローしてやれたとしても。いつまでもずっと、ってわけにもいかないだろ?」
「………」
「あいつは基本、しっかりしているし。水滸としての僕なんか、必要ないさ」
「…まあな」
 やけに理路整然と返ってきたのに、何とはなしに、相槌を打ちながらも。
(……まあ、そうだろうな。あくまで母親の弟、肉親としての伸、を頼ってきてるってことか。)
(……頼ってというか、甘えてというか。)
「………」
 曖昧な温度の飯粒を、しみじみと噛み締めていた、当麻の口から。
「ええなあ」 と、ぼそっと言葉が漏れた。
「…何が」
「うらやましい」
「………」
 どうせ何もできないんなら、と頭の中だけで続けてから。
「いっそ俺も今だけ、お前の甥っ子になりたい」
「嫌だよこんな、かさばるばっかりの甥っ子」
「………」
 よくも即答しやがったな、と返しかけて。
「おい」
 声と目線で相手の注意を促したのに、え?と伸が振り返ると。

 いつの間にか、気配なく。
 開けてあった障子の枠に、側頭部をくっつけるようにして立っている、白いパジャマ姿の、幼い男の子 ─── もう一人の甥っ子が、いたのに。
 伸は表情をゆるめ、
「おかえり、ミナト。おかあさんは?」 と、やわらかに問いかけた。
「………」
 玄関の方に顔を向け、そのままじっと視線を送っているのに気付き。伸が立ち上がる。
 襖のふちに手を掛けて、廊下に身を乗り出し、状況をうかがっていたが。
「…門のところで、近所の誰かに捕まってるみたいだ。ミナト、手はもう洗った?」
「…あらった」
「そうか。えらいね」
 言いながら膝を曲げ、身体の位置を落とすと。
 胸もとにすがりついてきた、細い胴体を両手で抱きとり、額と額をぴったりくっつけて。
 もう冷たいくらいだな、と微笑んだ。
「熱は完全に下がったね。あとはいっぱい食べて、体力取り戻さないと」
「………」
 茶碗と箸を、座卓の上に置いて。いろんな意味で密着している、叔父と甥の有様を、黙って眺めているうちに。
 そういや、こいつの姿をちゃんと見るのは。
 もしかして、まだ首も据わってなかった赤ん坊の時以来か? と、当麻は気付く。
 ──── 筑波に出向していた志塚氏に、再び辞令が下り、一家揃って萩に戻ってきたのが、確か去年の春。
 それよりさらに2年前の秋、この次男坊を産むために、小夜子が里帰りしていた折に。毛利家に1日だけ滞在したことがあったのを、思い出す。
 産まれて一週間あまりの新生児なんて、間際で見たり触ったりしたのは。それこそ後にも先にも、あの時位のものだと……。
(……ってことは、もうすぐ3歳か。早いもんだな。)
「おなかすいてるだろ、ミナト」
 起き抜けにすぐ出かけたから、ほとんど何も食べてないんだこいつ。と、当麻に説明して。
「何か、食べたいものある?」
「…ゴハン」
「お粥じゃなくて?」
 相手の視線が当麻の前にある、食べかけの茶碗にまっすぐ向いているのに気付き。
「普通の、ご飯がいいんだね。わかった、すぐ用意するよ。ところでミナト」
 少しおどけた口調で。あらためて紹介するよ、と伸は続けた。
「僕の友達の、当麻だよ。これからしばらく、うちにいるからね」
「…とーま」
「そうそう」
 はにかむように小声で反復したのに、最上級の微笑みで頷いてから。
 伸は当麻に向かって、
「ちょっとこの子の食べるもの、用意してくるから。悪いけど、しばらく相手してやってて」
「…ええっ」
 そう言い捨て、足早に居間から出て行きかけた背中に、
「ちょっ……相手って、一体どうすりゃいいんだ」
「…そこの椅子に、座らせて。欲しがるようなら、麦茶飲ませてやって」
 肩越しに振り向いた目が、大丈夫だよ、と語ってはいたものの。
「………」
 あっけなく、一対一で取り残されてしまい。……目を数度、ぱちぱちと瞬かせてから。
 当麻はあらためて、すぐ傍らで、ひたすらきょとんと自分を見あげている。
 つまりは胡坐をかいている自分よりも、目の位置が少々下にある、小さな相手と。否応なしに向かい合った。
「………」
 全体的になんとなく、色素は薄めのようだが。
 それでも、とりわけどこが誰に似てるってわけでもない顔だな、と思う。強いていえば、家族全員に少しずつパーツをもらってる、みたいな。
(……しかし、特に病弱って感じでもないな。)
 病気といえば、たまに風邪をひいたりおなかをこわす程度の兄とは違い、生来あまり丈夫ではないらしいが。
 以前、伸が話していた言葉を思い出す。
(特別にどこが悪いってわけじゃ、ないみたいなんだ。一応ひととおり精密検査も受けたんだけど、特に何も出なかったし。)
(ただとにかく、何かと熱が出るんだ。免疫系統が全般的に弱めなんじゃないかって、医者は言ってるんだけどね。)
 ……確かに、最近ほとんど外にでていないのだろう、肌の色は白いし。
 ふわふわしたガーゼの、やたらゆったりした(いや単にサイズが大き過ぎるんだな)パジャマを、身に着けているせいも相まってか、ほっそりした体格に見えるものの。
 生命力的にはすこぶる充実、問題なしって雰囲気だ。……我ながら、妙な感想だが。
(…いや、こんなしげしげと観察している場合じゃなかったな。)
 ──── 特に、何を要求している風でもなく。
 まるで、何かの小動物のような ─── それも人の怖さをまったく知らない ─── 表情で、ほとんど瞬きもせず、自分を見返し続けている子供に。特に意味もなく、軽く頷きかけてから。
 今しがた、そこの、と身振りで示された方向に、当麻が目をやると。
 襖のきわに、かなり年季の入った感じの、背もたれが緑色のカエルの顔でできている、幼児用のパイプ椅子が置いてあったのに。まずはあれを取らなきゃな、と床に片手を付き、胡坐を崩しかけたところ。
「………」
 いきなり、ミナトが身体を動かした。
 立ち上がりかけた当麻の動作を封じるように、するりと、かつ微塵のためらいもなく。
 あまりにも自然な調子で、当麻の膝上に、すとんと腰をおろした。
「………」
 まるで想定外の事態の発生に、少々呆気に取られつつ。
「おい」
「………」
「…椅子。いらないのか」
「ん」
 顎のすぐ真下で。自分の両膝に両手の平を置き、前を向いたまま、そう応えた相手から。
 病院帰り直後なのが明白な、いわゆる消毒臭を、ほのかに感じ。
 幼児特有の、とても細くて柔らかな、そして若干色も淡い毛髪を眺め。
 ……小さな子供が自分のふところ内に、しっくり納まっているという。かつて経験のない状況に、何やら少々くすぐったいものを憶えながらも。
「…お茶、欲しいか?」
「ん」
 即座にそう返ってきたのに、伸が置いていった、七分目ほど麦茶の入っているコップを渡すと。
 ミナトは両手で受けとって、嬉しそうに飲み始めた。
「………」
 時々、上目遣いに当麻の顔をうかがっては。
 目があうとすかさず、にこーっと笑って見みせてくるのに。つられて少々ぎこちなく、笑みを返しながら。
 またなんちゅー対照的な、と思う。
 あの幼いながらにして、頑迷な意思のカタマリのような、二歳年上の兄貴とは。
(……ま、いいか。)
 少なくともこの弟の方とは今後、そう悪くもない間柄でいられそうな予感がするってのは、まだしもだな、と思いながらも。
 当麻は中断されてしまった食卓の上、並んでいる皿や器を眺め。
 この体制で口に入れやすい、いや何とか口に運ぶことができそうなのは。果たしてどれだろうか、としばらく吟味した。



 しばらく後、居間に戻ってきた伸は。
 下の甥っ子が、想定していたのとは違う場所 ──── 両肘を顔の真横の位置まで上げて、何とも食べ辛そうに、小鉢から大根おろしを口の中に流し込むようにしている、当麻の顎の真下で。
 爪楊枝に突き刺された、糠漬けのきゅうりの切れ端をぽりぽり齧っている、という状況に。
 おや、ととても面白いものを見つけたような表情になった。
「そこがいいんだ。ミナト」
 すこぶる機嫌よさげな様子で、こっくり頷いた相手の前に置いてあるコップが、すっかり空になっているのに気付き。
「麦茶、全部飲んだんだ。こぼさなかった?」
「いや、全然」
「おにぎりにして、正解だったな。当麻はご飯、おかわりいる?」
「…ああ、頼む」
 運んできた盆の上から、小皿を取って。海苔で巻かれた三角おにぎりを一つ、小さな手に掴み取らせてから。
 その頭越しに差し出された、空の茶碗を受け取り、脇に置いてあったお櫃の蓋を開けながら、
「邪魔だったら、気にせず膝から降ろしてくれていいよ」
「…いや、何とかなってる。こいつ軽いし」
 自分のことを、話題にされたからか。
 握り飯を早速ほおばりながら、ミナトがまた、ちらっと当麻の方を見あげた。そのまるい瞳と、目があった時。
(……ん?)
 ──── 幾度か、瞬きしてみて。
 気のせいだったか? と、当麻が首を傾げていると。
 廊下を軽い足音が近付いてきて、
「ごめんね、伸。ちょっと立ち話のつもりが、何だか長引いちゃって。……あら」
 おはようございます、と浅く会釈した当麻に、小夜子は目を和ませて。
「ゆうべはよく眠れた? 羽柴さん。そうだ、足の腫れの方は大丈夫?」
「ええ。もうほとんど。それよりすいません、俺ひとり大寝坊で」
「いいじゃないの、せっかくのお休みなんだから。普段は忙しいんでしょう? 毎日」
「………」
 そう言いながら、弟と違ってほとんど癖のない、長い髪を、頬の横に垂らしながら俯くと。
 当麻の胸もとで、すっかり馴染んでくつろいでいる次男坊を、小夜子は愛しげに眺め、
「いいわねえ、ミナト。羽柴さんに抱っこしてもらって」 と、話しかけた。
「でもそれ食べたら一端、こっちにいらっしゃい。とにかく着替えなきゃ。汗かいちゃったでしょ」
「いや。すぐに行っておいで、ミナト」
 すかさず伸が、そう言葉を継いだ。
「ちゃんと着替えたあとで、あらためてゆっくり食べたらいい。待ってるから」
「………」
 伸の顔に視線を移し、素直にこくりと頷くと。
 慣れた様子で、軽やかに膝から降りて。伸の差し出した小皿に、半分になっている握り飯を置き、ぱたぱたと母親を追いかけていく、華奢な素足を見送ってから。
 あらためて座卓に向かい、胡坐を組みなおし。
 冷奴の器を、手元に引き寄せている当麻の方に、伸は、可笑しげな光を宿した瞳を向けた。
「すっかり懐かれてるじゃないか。実は結構、得意技なんじゃないのか?」
「何が」
「子守り」
「………」
 そんなに露骨に面白がるなよ、と思いつつ。
「別に、俺が得意ってわけじゃあ……」 と、当麻はもごもご言った。
「あいつが自分から、膝に乗ってきたんだ」
「ふうん」
 まだにやにやしながら自分を眺めている相手に、横顔を向け、醤油の小瓶に片手を伸ばし。
「しかし、おそろしく懐っこい奴だな。誰にでもあんな感じか」
「………」
 目を細めたまま、何故かしばらく沈黙してから。
 いやそうでもないよ、と伸は返した。
「あれでいて。かなり極端に、人見知りする方でさ」
「へえ。そんな風には見えないがな」
「…相手によっては、極端な場合、指一本触れさせないんだけど」
 含み笑いをしながら、でも、と続けた。
「お前は平気。というか、相当気に入ってるみたいだ」
 誰かと違って、と。相手が暗に匂わせている気がして。
 ……せめてもの救いだな、と思いつつ。
 それを口には出さず、当麻はただ、苦笑いを返した。

 ──── 本当に。足して割ってくれ、いっそ。




続く


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